● 1. はじまったかも
 そういいながら妻が、自室で仕事をしていた僕の元へやってきたのは3月29日の午前0時半だった。「おしるしがあったみたい」と戸惑いながら妻は続けた。まさかと思った。おしるしとは出産の数十時間前に子宮口が開いたときに出るという出血のことだ。予定日は4月8日なのでまだ10日もある。ちょっと早すぎる。「痛みは?」と聞くと「かなり痛い」壁にもたれかかり、両手でおなかをさすりながら妻は言った。下腹部をギュッギュッと激しく圧迫されるような重い痛みがあり、ここ2時間ほどで急に激しくなったという。そういえば2日前から発作的にそのような痛みがあると言っていた。もしかするとこれが前駆陣痛ってやつか?「間隔は?」と聞くと「15分ぐらい」と妻。こりゃいよいよ始まったのか。にしても早すぎないか?えっと、えっと、どうしたらいいの!?心の準備ができずに僕があたふたしていると、やにわに妻が悲鳴をあげた。「だめ!だめ!こんなときに!」どうした?と聞くと、「赤ちゃんが、子宮の中でぐるぐる動くの」どうやらおなかの中の娘が大暴れしているらしい。普通10ヶ月にもなると胎動も落ち着くという話なのだが、どっこい我が子は暴れん坊だ。今日にいたるまで毎日かかさず、この時間帯になると動き出す。「うーん、痛い!気持ち悪い!やめてー!」身をよじる妻のおなかに手を当てると、赤ん坊の手か足がこぶのように突き出て、それが左の脇腹から下腹部までぐりんと動くのが分かった。うーむ、こりゃ痛かろう。子宮の痛みと胎動の痛みのダブルパンチに耐えながら1分後、妻はようやく落ちついた。

 くたくたになった妻の足をとり、せめて陣痛に効くといわれる足裏のツボをうんしょ、うんしょと押してみたが、まったく効かない様子だ。放心状態の妻にその13分後、ふたたび激しい痛みが襲ってきた。「と、とにかく病院に電話だ!」僕は受話器を手にした。

※写真はイメージ画像です
● 2. 妻が痛がってるんですが
 そんな言い方しかできなかった自分が情けなかった。電話にでた宿直の看護婦さんは事態を察し、すぐ妻に代われと言った。身をよじる妻に受話器を預け、その会話を伺う。「はい、15分おきぐらいです。うぐっ。結構痛いんですけど。はい、昨日あたりから。うぐぐっ。出血もありました。うぐっ。これって陣痛でしょうか?うぐっ。はい、はい、分かりました。」受話器を置いた妻に聞くと、とりあえず様子をみましょうとのこと。予定日より10日も早いので、このまま痛みが去る可能性も高いのだそう。万一痛みの間隔が5分おきになったら病院にきてくださいとのこと。うむむ、生まれるのか、生まれないのか、どっちなんだ!?「いたい!!いたいーーー!」妻の額は脂汗でびっしょりになってきた。どっちにしろ妻の痛みは尋常じゃなさげだ。本陣痛とすれば、これからさらにこの何倍もの痛みと格闘することになる。そう思うとゾッとしてきた。妻はその痛みに果たして耐えられるだろうか。このまま死にやしないだろうか。急に心配になってきた。でもとりあえずはこのまま様子を見るしかない。さっきから妻の手足のツボを押しているがやっぱり効果がない。さしあたりこの痛みをとってやりたいが、どうしたものか。考えた揚げ句、思いついた。そうだ、ラマーズ法だ!「ひっひっふう」ってやつだ!こいつが魔法の呪文に違いない。僕は妻に言った「ひっひっふう、ひっひっふう」思考能力が低下しつつある妻もすがるようにこの呪文を唱えた「ひっひっふう、ひっひっふう」「その調子!』僕は言った。

 しかし魔法の呪文もさして効果はなかった。そうこうしているうちに痛みの間隔が短くなってゆく。いよいよ出産かと覚悟しつつ、時刻はまもなく4時半、その間隔はとうとう5分を切った。僕らはとりあえず荷物をバッグにつめ、車に乗り込んだ。

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● 3. い、急げー!
 産院へと向かう車中も、妻は助手席で定期的に雄叫びをあげていた。すでに「ひっひっふう」どころではない。陣痛のたびに「い、いだだいいい〜!!いだだだだいいいい〜!」と唸る妻。こうなるともうどうすることもできない。僕ができることといえばひたすらアクセルを踏むことぐらいだ。それでも陣痛が収まる3、4分の間は妻もいくぶん冷静に話をすることができる。「本当に生まれるのかなぁ?」「どうだろうねぇ」「でもやっぱり早すぎるよねぇ」「どうだろうねぇ」そんな会話を何度となくした気がする。

 3月生まれだといいね、と言っていたのは僕だった。自分が3月生まれだというそれだけの理由なんだけど、ことあるごとに妻のおなかに手をあてては「娘よ、3月中に出ておいで」と言っていた。しかし現実には予定日より10日も早い。さすがに無理だろうなぁと思っていた。ハンドルを握りながら、以前妻が言っていたことを思い出した。「赤ちゃんは生まれる日を自分で選ぶんだって」産院の母親学級で教えてもらったそうだ。それによると、なぜか出産は土日に多いという。赤ん坊が一番安全に誕生できる日を自分で選んでいるというのだ。なぜ土日なのかというと、週末はたいてい夫が家におり、ウィークデーより妻がリラックスした状態になるからだという。出産は何より母親がリラックスすることが第一なので、赤ん坊はおなかの中でその周期を感じ取り、出産に一番安全と判断したときに、エイヤとばかりに母親のホルモンに働きかけるというのだ。結果、赤ん坊の誕生に夫が立ち会える確率は意外に高いという。3月中に生まれてくれ!という僕の願望とはまったく関係ないけれど、おなかの中の赤ん坊は、自分が最大限愛されるように、したたかな計算にもとづいて生まれてくるような気がして、急に愛おしい気分になった。うむ、かわいい奴め。

 そんなことを考えているうちに、産院に到着した。すでに一人では歩けなくなっている妻を抱え、夜間口のインターフォンをならした。

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● 4. あれ、来ちゃったのぉ?
 陣痛室の扉を開けるなり、すっとんきょうに先生が言った。「来るなら電話しようよ」いつもは陽気で愛嬌たっぷりの人柄なのだが、あれれ先生、今日ちょっと不機嫌じゃないですか?ともあれ妻の様子を見てもらう。診察後、戻ってきた妻は痛みでひとまわり小さくなっているような気がした。なにやら陣痛を計測する機械をおなかにつけられ、プリントアウトされる波形をじっと見つめる先生。妻がうめき声をあげるたびに波形は山形を描き、その山が大きければ大きいほど陣痛が大きいということらしい。波形の高低差は3cmぐらいだろうか。彼いわく「まだまだ陣痛が弱いね。まあ、今日は生まれないでしょう」そ、そうなんですか、先生?こんなに痛がっているのに?「まだ子宮口もあまり広がっていないし、陣痛もたいしたことない。まあ朝まで様子を見て、今日は帰りなさい」そ、そうなんですか、先生?「いいだだだいいいい〜!」うめき声をあげる妻に彼は「お母さん、そんな声をあげるほど痛くないはずですよ。もっと頑張らなくっちゃ!」と子供を叱咤するように言った。い、痛くないんですか、これで?妻のうめき声は30分前と比べ物にならないくらい激くなっていたし、その度に見たこともない形に身をよじっていた。先生、その機械で、妻の痛みが本当に計測できるんですか!?先生には妻の痛みが分かるんですか!?喉まで出かかったが、相手は百戦錬磨の大先生。たぶん本当にそうなんだろう。とにかく信じるしかない。でも、これが陣痛じゃないとすれば、本当の陣痛どんなものなんだ?僕はさておき、その痛みを否定された妻の顔には絶望感すら立ちこめていた。

 すがるようにこの場所に駆け込んだ僕らはなんだかとても惨めな気分になった。

※写真は産院の廊下
● 5. 戦闘開始
 陣痛室に取り残された僕らは、ほとんど会話をしなかったように思う。妻は相変わらず数分おきに身をよじっている。さっきと違うのは、うめき声がいくぶん小さくなったことだ。よく観察すると、彼女は一生懸命声を殺しているように見えた。痛くない「はず」の痛みをこらえ、それならば本物の母親になってやろうと必死で歯を食いしばっているように見えた。その姿がけなげでかわいそうだった。僕はただ「痛いよねぇ。頑張ろうねぇ」と言いながら彼女の背中をさするしかない。痛みが一瞬引いたときに、慰めるつもりで「もう少しすればきっと楽になるよ。大丈夫、大丈夫」と明るく言ってみたが彼女は何も言わなかった。妻のふるえる背中をさすりながら、2人で途方に暮れるしかなかった。

 1時間ほど経ったころ、彼女の様子が変わってきたのに気づいた。痛みの間隔はもう1〜2分だっただろうか。その身のよじりかたが普通じゃなくなり、それとともにふたたび雄叫びをあげだした。それは一度も聞いたことのない声だった。「ふふぬぬぬうう〜!ぐおおおお〜!ぐいいいいいい〜〜!」まさに猛獣の咆哮。そして激しく暴れだした。急に野性化した妻に動転した僕は反射的にその体を押さえつけ、「大丈夫!大丈夫だから!」と叫んでいた。しかし妻はおさまらない。「いやあああ〜〜!離してええ〜〜!」と叫びながら七転八倒を始めた。その声は隣のナースルームまで聞こえたのだろう。看護婦さんがバタバタと駆け込んできた。「何してるのお父さん!押さえつけちゃダメ!どいて!」看護婦さんに突き飛ばされた僕は呆然としていた。「お母さん、お母さん、聞こえますか!?」「ぐおおお〜〜!ぐいいいいい〜!」「お母さん、いきんじゃダメ!力を抜いて!」「ふぬぬぬううう〜!ぐおおお〜〜!」「だめ!力抜いて!」見ると看護婦さんの表情がすっかり変わっていた。「お父さん、あっち向いて!」そう言うと彼女は慣れた手つきでのたうちまわる妻のパジャマの裾をまくり上げた。「ど、どうなんですか?」顔を背けながらおそるおそる尋ねると、数秒の沈黙の後、彼女は言った。

「子宮口が開いてきた。始まったみたいね」

※写真は陣痛室内
● 6. 陣痛室での激闘
「お父さんは、とにかくお母さんが力を抜けるように手伝って」看護婦さんはそう言い残し、足早にナースルームへ去っていった。ええと、力が抜けるようにと言ったって、どうすりゃいいんだ。犬は出産するとき飼い主をも噛むというが、今の妻はまさにその状態だ。背中をさすっても「ぐるるるう〜〜!」手を握ったら「ぐいいいい〜〜!」こりゃいつ噛まれてもおかしくない。とりあえず妻の意識を痛み意外のところへ向けるしかないが、なにか良い手はないか?そうだ、僕は思いついた。今こそあの呪文だ!妻の背中をさすりながら、意識をなるべく呼吸に集中させるように言った。「ひっひっふう!ひっひっふう!」妻もなんとか後に続いた「ひっひっふふぐぐう〜〜!ひっひっふぐぐいいいい〜!」だめだ!すぐに意味不明の叫び声にもどってしまう。やっぱり効かないのかラマーズ法!嗚呼!天を仰いでいると看護婦さんが戻ってきた。「お父さん、そんなやり方じゃだめ!余計に力がはいっちゃう!かして!」彼女はベッドに飛び乗り、妻の背中をさすりながらゆっくり言った「ひっひっふぅ〜〜〜〜〜。ひっひっふぅ〜〜〜〜〜」妻がそれに合わせる「ひっひっふぅ〜〜〜〜〜」なんと、妻の様子が少し落ち着いたように見えた。看護婦さんが言った。「あんなリズミカルに言ったら余計に力入っちゃうでしょ。最後のふうはゆっくりと息を吐き出すようにやってあげて。はい、お父さん」そうだったか!知らなかった。早く言ってよ白衣の天使。正しいラマーズ法ノウハウを手にした僕は、言われた通りに唱えてみた。「ひっひっふぅ〜〜〜〜〜。ひっひっふぅ〜〜〜〜〜」ほんのちょっとの違いだが、妻はずいぶん気がまぎれるようだ。ふう、良かった!

 と、落ち着いたのもつかの間、看護婦さんから次の指令がきた。「じゃあお父さん、お母さんが好きなCDかけてあげて」陣痛室にはCDラジカセがあり、母親がリラックスできる曲を流すことができる。よし、僕は妻の大好きなビートルズのベスト版をセットし、ほんの少しだけボリュームをあげて再生ボタンを押した。妻よ、聴きたまえ。君の大好きな曲だ。テンポの良いイントロが流れ出したその瞬間、彼女は吠えた。「いやああああ〜〜!」あせって看護婦さんを見ると「お父さん、それ、うっとうしいって。消して!」ご、ごめんなさい!でもこのCD、自分で選んだじゃないか。「陣痛室でこれをかけてね」って言ったじゃないか。いやいやそんなことはどうでもいい。いま苦しいのは妻だ。僕は気を取り直して看護婦さんとバトンタッチし、ラマーズ法オンリーでこの緊急事態を切り抜けることにした。

 どうにかこうにか格闘すること1時間、すでに痛みの間隔は1分を切り、妻は絶え間なく咆哮をあげていた。ラマーズ法もすでに歯が立たない。それでも一心不乱にひっひっふうしていると、先生が様子を見にきた。その場で簡単に診察すると、「お母さん、やっぱりお母さんの予感の方が正しかったね。ごめんね」とバツが悪そうに言った。妻は「ぐいいいい〜〜!」と答えた。彼は丁寧に妻の裾をもどすと「よし」と言った。先ほどとは違い、キリリと頼もしい表情になっていた。先生、今度こそ頼んますぜ!僕が祈ると、彼はうなずきながら言った。「さあ、行きましょうか!」

※写真は陣痛室内
● 7. 分娩台での死闘
「ひっひっふぐぐぐうううう〜〜!」妻が隣の分娩室に運ばれてすでに45分が経っていた。僕はまだ呼ばれていない。ひとり陣痛室にとりのこされたまま、ソファに腰掛けじっと分娩室の様子をうかがっていた。壁を隔ててもその様子は手に取るように分かった。分娩室では助産婦さんの号令に従って、ラマーズ法の改良版が実行されていた。さっきのはいきむ力を殺すためだったが、今度はどうやらまったく逆らしい。「強くいきんで!はい、ひっひっふう〜〜!!」「ひっひっふぐぐぐううう〜〜!」解き放たれた野獣のように、壁の向こうの妻は叫んでいた。続けて先生の声が聞こえた。「ほら、もっといきんで!だめ!もっともっと!」「ふぐぐぐぐぐぐううう〜!」「そうそうそう!はいもう一度ぉ!」その凄まじさに圧倒されながら、僕は両手を握り合わせ心の中で祈った。「どうか妻が死んでしまいませんように」ほとんどの女性が無事に出産するということが、そのときの僕には本当に信じられなかった。

 壁の向こうの彼女は、おそらく最後の力をふりしぼっているのだろう。「お母さん、寝ちゃダメ!起きて、起きて!」と何度となく聞こえた。時刻はすでに午前9時前、妻の疲労も最高潮に達しているはずだ。「お母さん、寝ちゃダメだったら!はい、もう一度!」僕は急に不安になった。果たして、このまま最後までもつのだろうか?最悪のことになりはしないだろうか?悪い予感が脳裏をよぎったその時、いままでとは違うトーンの先生の声が聞こえた。「ほら、アタマが出てきたよ。お母さん、分かるでしょ?」なんだって!僕は目を見開いた。出てきたって!?赤ん坊が!?僕は、分娩台の向こう側でひょっこりとその姿を見せたもう一つの命をイメージしてみた。それで産声は??「ふぐぐぐううう〜〜!」妻が唸る。産声はまだ聞こえない。「もっと、もっと!赤ちゃんも頑張ってるんだから、お母さんも頑張らないと!」優しい口調だったが緊迫した様子が伝わってきた。僕の勝手なイメージは一気に加速した。なんてこった!おそらく我が子は、その頭を外界にのぞかせたまま、産道で大きく顔を塞がれているのだろう。へその緒が繋がっているとはいえ、破水したいま、赤ん坊はすでに酸欠状態のはずだ。そして新しい命のカギは間違いなく満身創痍の妻が握っている。「生むほうも生まれるほうも命がけなんですよ」以前先生が言っていた言葉の意味がようやく分かった気がした。おお、妻よ!そして我が子よ!なんてムチャな事にチャレンジしているんだ!とにかくお願いだ!頑張れ、頑張ってくれ!妻の雄叫びに合わせ僕の拳にも一層の力が入った。

 その5分後、バタバタというスリッパの音が廊下で鳴り、不意に扉が開いた。看護婦さんが部屋をのぞきこんで言った。「はい、お父さん、出番ですよ!」ついに来た!僕は渡された白衣を羽織ると、色めき立った。そのまま急いで部屋を出ようとすると「お父さん、カメラカメラ!」と彼女は言った。忘れていた。この産院では、立ち会い出産のとき、夫は写真やビデオで記録することを強く勧めている。僕はバッグから慌ててカメラを取り出し、首にかけた。「ちゃんと電池は入っていますか?」彼女は小学校の担任教師のような口ぶりで言った。「はい!」僕が生徒のように答えると、彼女は僕の背中を押した。「はい、じゃあ急いで!」

※写真は分娩台
● 8. うんぎゃあ〜!
 分娩台に張りつけられた妻はぐったりとしていた。僕は妻の頭側に立ち、「大丈夫?」と聞いた。彼女は目を閉じたまま、答えなかった。本当に寝ているのかもしれない。大きく投げ出された太ももには白いシーツがかけられ、僕の位置からは舞台裏が見えないようになっていた。「実際スプラッターだからね。お父さんがショックでセックスレスにならないよう、配慮します」先生が笑いながらで言ったのを思い出した。彼はいま、白いシーツの向こう側でまだ見ぬ我が子と格闘している。お願いしますよ、先生!ふと彼は顔をあげ僕を見た。確認するように小さくうなずくと、大声でやさしく妻に話しかけた。「お父さんが来たよ。さあ、もう少しだから頑張ってみようね!」妻は目を閉じたままゆっくりうなずいた。「はい、じゃあ力を入れて。ひっひっふう!」助産婦さんのかけ声に合わせて、妻は渾身の力を入れた。

 彼女は最後の力をふりしぼっていた。それは文字通り「ふりしぼる」という表現が正しい。「ふぐぐぐうう〜〜!」と力を入れたかと思うと、すぐにカクッとうなだれ、気を失ってしまう。「寝ちゃダメ!もう一度!」助産婦さんが言うたびにかろうじて意識を取り戻し、ふたたび残った力をふりしぼる。朦朧としながら妻は、ひたすら昏睡と覚醒のあいだを綱渡りしていた。本能だ。僕は思った。彼女はいま、一体の生物として、その本能に従って新しい命を体から吐き出そうとしているのだ。すごい、すごすぎるよ我が妻!それにひきかえ僕はどうだ。そんな妻の顔をこわごわ覗き込み、こんなに近くにいるのに、頑張れ、頑張れ!と耳元でつぶやくことしかできない。助けになりたいが、どうしたらいいのか分からない。僕が戸惑っていると先生が言った。「お父さん、お母さんの体を触ってあげて!はやく!」僕はうなずき、彼女の肩に両手をのせた。「お母さん!頑張って!お父さんも一緒だよ、すぐそばにいるよ!」先生が叫ぶと、彼女は目を開き、僕を捜した。僕は身を乗り出し、彼女の顔を真反対から覗きこんだ。妻は僕を見つけると、そっと目を閉じ、精一杯の力をこめた。「ふぐぐぐうう〜〜!」「そう!うまいうまい!その調子でもう一度!」連続で5回ほど、彼女は力を入れた。

「うんぎゃぁ〜!うんぎゃぁ〜!」白いシーツの向こう側で、命は吠えた。
● 9. へその緒の秘密
「生まれたよ!生まれた!元気に泣いてる!」分かってるはずだが、報告せずにはいられなかった。彼女は何度もうなずき、安堵の表情で目を閉じた。「えらい!よく頑張った。よく頑張った!」僕は汗まみれの手で、妻の頭をぺたぺたと何度も撫でた。ふたりともよくやった。本当によくやった。泣き叫ぶ我が子はタオルで血を拭かれ、妻のおなかにちょこんとのせられた。生まれたての小さな体は、驚くほど真っ青に染まっていた。その病的な風貌とは裏腹に、泣き声だけは生気にあふれ、頼もしかった。初めてとりいれた酸素が全身を駆け巡り、赤ん坊の体は次第に赤みを帯びてきた。「いや〜、べっぴんさんやねぇ」先生は言った。「ほんまですねぇ」助産婦さんも感心するように言った。そうだろうとも!お世辞と分かっていながら、僕は嬉しくなった。「しかしこんなに毛がふさふさしてる子は珍しいねぇ」えっ、そうなんですか?他の赤ん坊と比べてみたことはないけれど、確かにこの子の髪の毛はふさふさだ。そういえば僕も彼女も剛毛で、行きつけの美容院の店長からは「君と彼女の子ならハゲの心配はないよ」といらぬ予言をされたのを思い出した。Oh My Baby !まぎれもなく我が子!ふたりのDNAは確かに受け継がれた。僕は心底嬉しかった。でも我が子は女だ。ハゲの心配はそもそもない。

 娘の肌はみるみる人間らしい色に変化していった。慣れない肺呼吸も少しずつ板についてきたようだ。なんと頼もしい!しかしそれを見てふと不思議に思った。いったいこの子はどうやって母親の体内で暮らしてきたのだろう。目の前の彼女は、すでに人間となり、呼吸を初めている。でもついさっきまでは羊水の中で魚さながらの生活をしていたはずだ。うーん、実に不思議だ。ふと僕の目線はへその緒に止まった。僕は驚いた。へその緒は真っ白だった。「へその緒って白いんですね?」何気なく聞いてみると先生は「そだよ。それがここに繋がっていたんです」と言いながら、へその緒の、もう一方の端に繋がった真っ赤な固まりを吊るしてみせた。それは全長30センチほどで、スーパーの小分けビニール袋に真っ赤な臓物を詰め込んだような代物だった。「これが胎盤。こいつが酸素や栄養を準備し、へその緒から赤ちゃんに送って、いままでこの子を生かしてくれたんです。ありがたいねぇ」先生はまぶしそうに胎盤を見つめた。僕は想像してみた。真っ暗な胎内で、真っ青な胎児を生かすために、真っ赤な胎盤から酸素を運ぶ、真っ白なへその緒。なんだか分からないけど、僕は胎盤よりもへその緒の白さに、生命の秘密が隠されているように思えてならなかった。
● 10. Hi Mam!
「うんぎゃぁ〜!うんぎゃぁ〜!」血の気を取り戻した我が子は、それでもなお、執拗に泣き続けている。彼女にとって、生まれるということは、恐怖の試練以外の何ものでもなかったであろう。その泣き声は、羊水の中の快適な生活を突如破壊された揚げ句、狭い産道に放り出され、肺呼吸を強いられたことに対する、猛烈な抗議のように思えてならなかった。僕は心の中で語りかけた。痛かったろう。苦しかったろう。かわいそうに。でもね、それぐらい我慢しなさい。お父さんは、お父さんは本当に嬉しいのだよ。君がどんなに泣こうと叫ぼうと、わしゃ嬉しくてたまらないのじゃ。うるる、うるる〜。意味不明に我が子を説得していると、「はい、お母さんの胸を開けて」と先生が言った。助産婦さんが慣れた手つきで妻のパジャマのボタンを外した。あらわになった乳房の間に、先生はそっと我が子を置いた。「うんぎゃぁ〜」妻はまぶしそうに目を細め、胸の上の我が子を見つめた。両手で我が子を優しく覆い、その体をそっと撫でると、妻は声もなく泣いた。妻とてどんなに苦しかっただろう。どんなに心細かっただろう。肩をふるわせ、すすり泣く妻を見ながら、僕は心から感謝した。

 ふと先生が「ほら、見て赤ちゃん、分かる?」と言った。見ると、あれ?不思議なことに、あんなに泣き叫んでいた我が子がいつの間にか泣きやんでいた。「泣きやんでる」僕が答えると、先生はうなずきながら言った。「お母さんの心音を聞いているんだよ。おなかの中で聞いていた音と同じ音だから、安心して泣きやんだんだよ」なんと!そうだったのか!見ると我が子は妻の胸にぴったりと耳をあて、さっきとはうってかわって落ち着いた表情をしている。そうそう、この音この音、羊水の中で聞いたことあるよ。なんだ、怖くないじゃん。そう思っているに違いない。そこで先生が「試しに離してみよう」と言い、娘を持ち上げた。とたんに泣き出す娘。体を丸め、さっきと同じように、苦悶に満ちた表情で叫びだした。おいおい、何すんだよう、先生!「戻してみよう。すぐに泣きやむよ」妻の胸に戻されると娘はすぐに泣きやんだ。ほっ。僕が安心すると、「ほらほら、もう一度ぉ」調子に乗った先生はふたたび、娘を持ち上げ、そして置いた。娘はそのつど泣き、そして泣きやんだ。「ね、不思議でしょう?」僕ら以上に嬉しそうな先生に、娘で遊ばないでください、とは言えなかった。
● 11. 初めてのおっぱい
「はい、じゃあおっぱい飲んでみましょうね」助産婦さんはそう言うと、娘の顔を強引に乳房の上に持っていった。娘は、何がなんだか分からないという様子で、泣き出した。「はい、おっぱいですよ〜。おいしいよぉ〜」助産婦さんはやさしく言いながら、娘の頭をぐいぐい引っぱり、泣き叫ぶその口元に乳首を押し込んだ。娘は手足をバタバタさせて抵抗した。ちょっとちょっと助産婦さん、娘は嫌がってないかい?僕はそう思い「飲みたくなさそうですねぇ」と言ったのだが、彼女はひるまない。「そんなことないよねぇ」やさしく娘に語りかけると、もう一度顔を乳房に押しつけ、今度は娘のあごを指で強引に動かし「ほら、チュパチュパ。おいしいねぇ」と言った。「うんぎゃぁ〜」と娘。いいえ、まったくおいしそうには見えません。娘はひたすら抵抗している。きっと生まれて初めて、この世の理不尽さを感じているに違いない。「ほら、もう一度ぉ。チュパチュパぁ」「うんぎゃぁ〜」娘と彼女の攻防戦はしばらく続いた。僕と妻は無言で見守った。

 観念したのは娘のほうだった。飲みゃいいんでしょ!分かったわよ!と言わんばかりに娘は、激しくあごを動かしはじめた。さすが我が娘。聞き分けがよい。と、しだいに娘は「うっく、うっく」と喉をならしはじめた。予想以上においしかったのだろうか。僕と妻は顔をあわせ、笑った。「初めてなのに上手だねぇ」おっぱいを強制した助産婦さんは、心底感心するように言った。生まれて初めて乳を飲まれている妻は、恥ずかしいような、ムズかゆいような、それでもやっぱり嬉しいような、といった表情をしていた。娘はときおりむせながら、それでもうっく、うっくと飲み続けた。生まれて初めて乳を飲む娘、そして生まれて初めて乳を飲まれる妻。どちらもまだまだビギナーだ。ふたりのぎこちなさが、なんとも微笑ましかった。そして、僕は心底うらやましかった。妻の心音といい、おっぱいといい、男が経験できない幸福感を妻はいま、味わっている。いいなぁ、妻。出産を交代する勇気はないけれど、ああ、せめて男もおっぱいが出ればいいのに!と僕は思った。
● 12. Hello World!
 ひとしきりおっぱいを飲んだ娘は、満足したように妻の胸に顔をうずめていた。手足をモジモジさせているが、落ち着いた表情で母に身をあずけている。おっぱいかぁ、うめえもんだ。人生も捨てたもんじゃねぇ。そう思っているのかもしれない。僕は一眼レフカメラを構え、そんなふたりを撮ろうとした。娘にピントが合ったその時だった。彼女はゆっくりと目を開いた。そのつぶらな瞳は、カメラを向ける僕をまっすぐに見つめた。もちろんまだ視力がないので人の区別もつきようがない。だが彼女は今、僕を見ている。そう感じた。僕はファインダー越しに、心の中で話しかけた。初めまして。おじさんは、ええと、怪しいものじゃないよ。僭越ながら、君の約半分をつくった者です。パシャ。娘はじっと僕を観察している。君のお母さんは、すごい人です。ついさっき、彼女は、とてつもなく痛い思いをして、君を生んだんだよ。パシャ。君はどうだった?産道はきつかったかい?はじめてのおっぱいはおいしかったかい?パシャ。これからいろんなことがあるけれど、君は不安かい?きっと不安でいっぱいだろうね。パシャ。でもね、大丈夫。君には強いお母さんと、若干頼りないけれど、この僕が、、言い終わる前に、娘は大きなあくびをすると、眠そうに目を閉じた。僕はゆっくりとファインダーから視線を外した。

 分娩台の上で、妻は幸福そうに目を閉じ、娘の体を静かに撫でていた。娘はもう一度大きなあくびをすると、ムニャムニャと小さな口を動かしていた。僕は最後にもう一度ファインダーを覗き込み、目の前に優しく横たわる二人の女性をフレームに入れた。

 妻よ。君は本当にすごいことを成し遂げた。今の君は、汗まみれで、スッピンで、髪はボサボサで、とても人前に出せないけど、マジ奇麗だ。本当にありがとう!パシャ。

 娘よ。ともあれ、君の人生ははじまった。つらいこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。どんな困難にぶつかっても、負けずに頑張れ!言い忘れたけど、ろくでもない男につかまったら、お父さん、発狂するからね。あと、お風呂は中学生まで一緒に入ろう!頼む、変態って言わないでくれ!パシャ。

完。

出産秘話 本編1 〜出産編〜

〜陣痛から出産までの8時間47分のドキュメント〜